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池田衆 Shu Ikeda 「Pomegranates #1」

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池田衆 Shu Ikeda 「Pomegranates #1」 created in 2019, bought from Maki fine arts in Jun 2019 写真家の池田衆さんの作品で、写真を切り抜いて制作されています。 http://shuikeda.com/ 構図が伝統的な静物画なので、ペインティングにも見えますが、写真を切り抜いた作品です。 また、切り抜いた跡が筆跡にも似ているので、余計に写真と絵画のイメージが混同する面白い作品です。 題名の Pomegranatesといのは、ザクロ(柘榴)という事で、西洋絵画では「 多産、繁栄、死と復活」の シンボルとして描かれるようです。 西洋絵画の静物画としての見方と、写真の歴史を合わせて考えると、この作品の面白さが増すと思います。 写真の黎明期に、特に肖像画や写実の分野だと思いますが、絵画と写真の上下論争があったと聞いています。1900年頃にアート写真としての地位を目指したフォトセセッションの運動もあったようです。 写真技術の誕生で、写真と絵画の関係性が議論されたようです。 一概には言えないですが、その後、絵画は抽象的な精神活動や筆跡等の表面の物質性を表現する個人的な方向で強さを発揮し、写真が報道やスナップ等の現実的、大衆的な方向で、皆で共有する方向に強さを発揮した気がします。 そういった過去からの絵画と写真の乖離的な流れを思って、逆に2つを混合、融合させるこの作品を見ると、何だか奥深いなと。 最近の写真は表面ではなく、物質性を意識させる作品も多いですよね。 この作品を購入する前にも、池田さんの作品は10年ほど前に初めて拝見し、その時は花や植物の写真を切り抜いて作品を制作されていたのを覚えています。 綺麗でかつ、画面の中で、像が存在するところと切り抜かれた空白の強い対比で独特の緊張感が産まれていた作品だったと記憶してきます。 個人的な趣味で恐縮なのですが、あまりにビッチリ書き込んだ作品は圧迫感があると言いますか、少し余白がある方が、そこに鑑賞者の想像力が働く気がして心地いいです。 意図的に切り抜くことで頭の中で記憶の欠損を埋めるような作用も働いているのかもしれません。 これまでの池田さんの作品は遠景の構図の写真を切り抜いた作品が多かった気がしま

栗田紘一郎 Koichiro Kurita 「Dark cloud」

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栗田紘一郎 Koichiro Kurita 「Dark cloud」 created in 1987, bought from Fotosphere gallery in Mar 2018 写真家の 栗田鉱一郎さんの作品です。 https://www.koichirokurita.com/ 主に米国で活動されている作家さんで、ソローの足跡を辿ったアメリカでの”Beyond Spheres”のプロジェクトを終えられた位なのでしょうか、友人の紹介もあり、購入しました。 購入した作品は、“Chi Sui Ki”というシリーズの作品で、撮影されたのが1987年と、栗田さんがアート写真のキャリアをスタートされた初期の作品で、八ヶ岳の自作の暗室に滞在しながら制作されたようです。 その後は渡米して30年間制作をされているので、日本で撮影された作品は意外に少ないのかもしれません。 実物の作品はとても陰影が滑らかで、地球上の景色ですが、少しあの世の光景のような、荒涼としつつ温かさも感じる、自然の厳しさも優しさも、どちらも伝わってくる落ち着いた作品です。複雑な機械による補正をあまり通さない分、対象物の存在をより近くに感じます。 この作品はストレートフォトだと思うのですが、アートとして写真を見る時、アナログカメラの時代からここ数十年で大きく変化した写真を取り巻く環境や、スマホで撮られたデジタル写真が気持ち悪いほど氾濫する現状を思うと、あまり時代の変化を受けていないようなペインティングの世界との比較もあり、色々迷いを感じます。 個人的な体験としても、幼少期に写ルンですや親のフィルムカメラで写真を撮影して現像に出していた頃の思い出と、スマホで適当にカシャカシャ気軽に写真を撮る現在の行為は全く別のものだと感じます。昔は現像するのに時間とお金がかかって、1枚の写真に重みがありました。 アート写真の分野でも、スナップ写真の時代があり、90年代以降はデジタルカメラとインターネットの発達を受けてトーマスルフのように自分でシャッターを切らずにインターネットから拾ってきた画像を加工して作品を作る作家や、横田大輔さんのように写真に物理的な処理を加えて別のマテリアルに変容していくような試みが行われていて、機材や印画紙の技術的な側面を重視する傾向は継続しているにせよ、ストレート

青木野枝 Noe Aoki 「空玉2016-46」

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青木野枝 Noe Aoki 「空玉2016-46」 created in 2016, bought from Gallery 21yo-j in Sep 2016 彫刻家の 青木野枝さんの作品です。 http://www.aokinoe.jp/index.html 時期は良く覚えていないのですが、青木さんの作品を始めて拝見したのは東日本橋にあったギャラリーハシモトさんでの展示だったと記憶しています。そこで、衝撃を受けたのを覚えています。 その後、Gallery 21yo-j さんでの展示を何回か拝見し、同様に衝撃を受けて、2016年に小さな作品を購入しました。 http://gallery21yo-j.com/aoki-noe-16/ その時の展示の文章です。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 今興味があるのは、上昇と下降、もどる水、ふりそそぐもの。 そして、覆われていくもの。 天蓋。その下の世界です。(青木野枝) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 圧巻の一言で、鉄のような重い素材でギャラリー空間全体を埋め尽くすような使い方が出来るんだという驚きとともに、重力に反して雨が天に登っていくような、鉄という重い素材を使いながら、物理法則を逆転させるような、非現実的な感覚を覚えさせる展示でした。 重さは力で、その重圧を感じつつも、逆に、軽さを感じてしまうような、不思議な空間でした。 また、2014年だとは思うのですが、 Gallery 21yo-j さんで「原形質」という展示も見たのですが、これも圧巻でした。 http://gallery21yo-j.com/aoki-noe-14/ 青木さんの作品は鉄を使用し、中心に重量を凝縮させない、どちらかというと外部への拡張や空間を意識させる作品が多いと思いますが、「原形質」の展示では、良く彫刻で言われる塊(マッス)を意識させつつ、ギャラリーの白い空間と石膏の白色が自然光を反射して、青白い空間が全体に広がるような、彫刻が塊でありつつも同時に空間に溶け込むような不思議な感覚を受けました。 彫刻作品ではあると思うのですが、展示されるスペースとの関係に作用し、その空間と作品を全く別のものにしてしまうような強力な作用を展示から感じました。 2020年に府中市美術館で青木野枝

刈谷昌江 Masae Kariya 「A foot dance」

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刈谷昌江 Masae Kariya 「A foot dance」 created in 2012, bought from Gallery terra Tokyo in May 2012 ペインティング、インスタレーション、映像と様々なメディアで作品を制作される 刈谷昌江 さんの作品です。 「野蛮な宴」という企画展だったのですが、ペインティング以外にも、野獣が踊る映像等もあり、 高いエネルギーと技術で展示スペースが濃い世界観で満たされており、 日常から一気に別世界に連れ出してくれるような力強さを持った展示でした。 絵画作品については、リズミカルな構図や躍動感、選択された色彩による安定感や統一感がいいなと思います。 作家さんがどのような意図で作品を制作されたかですが、企画展の文章を見ると、かなり冷静に作品を制作されたようです。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 時の流れを過去から未来へではなく、過去も現在も未来も、あるいは起こるかもしれない可能性も、起こらなかったかもしれない可能性も、全部が共存するような時の時空としてとらえ直してみたときに感じる混沌は、私たちの人間観のようなものをもっと別様にしてしまう力があるような気がします。 中略 もっと、野蛮で野性的な感情的で豊潤なわたしからはみだしてしまう怪物のような混沌を愚直に表してみたいと考えています。 前に前にと、進化発展に猪突猛進するだけでなく、こと文明の発展の際には曲がったり引き返したりすることが苦手な私たちにとって、絶えず形をかえつつ、決して特定の何かにとどまろうとしない混沌との共存の仕方を探し続けることは、今私たちに必要な術のひとつなのだと私には思えてならないのです。 2012年4月21日  刈谷昌江 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 文明や時空の混沌とした象徴としての野獣のようで、 冊子に他のペインティングが載っていますが、確かにそのような感じでとても好きなテイストです。 文明化や都市化は人間の内面も効率的にクリーンにしてきたと思います。一方で、かつての九龍城砦、 フィリピンのスラム街やタイのバンコクがいいとは言わないですが、雑多でカオスな世界への憧憬も消えることは無いと思います。 混沌や暴力は映画や格闘技の中の世界だけでいいような気もしますが

大西康明 Yasuaki Onishi 「体積の内側」

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大西康明 Yasuaki Onishi 「体積の内側」 created in 2015, bought from Gallery out of Place in Aug 2015 彫刻家の 大西康明さんの作品です。 http://onys.net/ 海外でのご活躍が目立つ作家さんで、しかも美術館等のパブリックスペースでの展示が多いそうなので、東京のギャラリーで作品を拝見できて幸運でした。 「体積の裏側」という大きなインスタレーションの作品を展示されていましたが、同時に展示されていた「体積の内側」という小さな作品を購入しました。 塩田千春さんや、栗林隆さん等、大きなインスタレーションをされる作家さんも、ギャラリー等でたまに小さな作品を発表されることがあるようですが、エッセンスが凝縮されたよう小さな作品にも、独特の存在感があります。 一見、インスタレーションをされている作家さんなのかなとも思うのですが、以下のインタビューにもあるように、彫刻の意識で作品を作られているようです。 https://www.cinra.net/interview/201901-5rooms ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 僕は自分の作品を「彫刻」だと考えています。服部浩之さん(インディペンデントキュレーター)に「Casting Invisible」、つまり空間の中から見えない要素を抽出する作品であると書いてもらったことがあるのですが、空間全体を何か塊のように捉え、そこに行為や現象を伴いながら、形態を明らかにする彫刻であると考えているんです。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 空間彫刻といったイメージなのでしょうか。 一般的に彫刻というと質量や存在感を意識させる物体を事前に制作し、展示スペースに置くものだと思います。配置の仕方で見え方も大きく変わりますが、物体が主役だとは思います。 インタビューに、学生時代に塑像の型取りで残された枠の部分に興味があったと記載されていますが、「枠」と「空」の部分。スペースを仕切る事と残された余白の空間を意識させるアプローチなのかもしれません。 大西さんの作品は、スケールの大きさによる体感的なインパクトがあり、吹けば飛ぶような軽い素材による繊細さや可変性の触感が鑑賞者にダイレクトに伝わってくる強みを持っていると思いま

三田健志 Takeshi Mita 「On the contour line」「ありてあるあるもの」

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三田健志 Takeshi Mita 「On the contour line」 created in 2014, bought from Hasu no hana in Nov 2014 三田健志 Takeshi Mita 「Thumbnail(hb15-002)」 created in 2015, bought from H-art Beat Gallery in Mar 2015 構想計画所 Kousoukeikakujo 「ありてあるあるもの」 created in 2014, bought from 養清堂画廊 in June 2014 三田さんの作品はこのブログで2回目の登場ですが、今回は2015年前後の作品になります。 https://mita-takeshi.tumblr.com/ この頃の三田さんの作品は、架空の人物を設定(本当に存在していたかもしれないですが)し、その人物が存在して経験したであろう軌跡を展覧会で提示されていました。 On the contour lineの展覧会では、冒険家・登山家の大洲奏。三田さんがグループで参加されている構想計画所では無人島に流れ着いた人物として。 架空の人物を設定して、そこに記述していくのは、フィクションの小説の手法と似ていますが、小説がストーリーや演出的な文章でリアリティを付加していくのに対して、三田さんは写真や物で世界観を構築されていました。 一番初めに三田さんの作品を購入した2009年当時は三田さんの事を写真家さんだと思っていたのですが、この頃の作品は写真の形態の作品だったとしても、インターネットから検索して拾ってきた画像を加工して作品にしていたり、染め物だったり、物だったり、石膏だったり、写真機を使って現実の世界を撮る写真家さんのイメージとはだいぶかけ離れた作品を制作されていました。 この頃の三田さんの作品からは「リアリティ」の強度といったテーマを感じます。 観光地で写真を撮る、お昼御飯の写真を撮るといったように、一般的には写真と現実の体験は≠ニアリーイコールな側面があるので、リアリティの強度が高いと見なされる写真で架空の人物を記述する事は小説と比較してもとても面白いと思います。 On the contour lin

杉山卓朗 Takuro Sugiyama 「Untitled」

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杉山卓朗 Takuro Sugiyama 「Untitled」 created in 2013, bought from 工術 vol 4.  Roentgenwerke AG in Jun 2013 杉山卓郎さんのペインティングです。 http://takuro-sugiyama.com/ 正直、この絵画のモチーフが何で、何を表現したいのかも分からずに、ただ、カッコいいなと思って購入しました。 何だか分からないですが、家に飾っていると、しっかりとした絵画なんだと感じます。 感情の動きがなく、画面の真ん中にどっしりと、立体的で、無機質で、鮮やかな色で存在しています。 しっかりとしつつ、だまし絵のような、CGで制作されたようにも見え、少し複雑な絡み合い方をしていて、見ていると引き込まれる感覚を覚えます。 少し印象は違いますが、モンドリアン、ロイ・リキテンスタイン、カンディンスキーといった作家の絵画を見ると、限定された鮮やかな色彩とシンプルな構図で、リズミカルな印象を受けるのですが、形式は違いますが、この作品もそのような流れで見ると少し理解が進むような気がします。 最小の単位で最大の効果を出せるようにする絵画の試みなんでしょうか。 モチーフが主張していないのに、周りの作品以上に存在を主張してくる面白い絵画です。

進藤環 Tamaki Shindo 「絶え間なく沿う」「方々へ連れていかれる前に」

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進藤環 Tamaki Shindo 「絶え間なく沿う」 created in 2011, bought from Gallery art unlimited in Aug 2014 写真家の進藤環さんの作品です。 http://www.artunlimited.co.jp/artists/tamaki-shindou.html https://hpgrpgallery.com/ ご自身で撮影された植物や風景の写真を手作業でコラージュ(フォトモンタージュ)した作品です。 私が購入した作品は、主に植物をモチーフとした作品なのですが、植物の生命力、毒々しいまでの鮮やかな色彩、むせ返るような湿気、逆に荒涼とした季節も感じる作品です。 実際の生態系や空間から隔絶されて、個々の植物や風景が溶け合わずに独自に主張しており、画面から高いエネルギーを感じます。 人間社会で例えると、単民族国家の日本ではなく、多民族国家でも南米のような人種のるつぼでもなく、人種が溶け合わないで個々に主張するサラダボウル的な米国の様なイメージなのかなと思います。 同質性や統一感が無い分、個々の輪郭が際立ち、主張し、画面のエネルギーが高く鮮やかです。 植物においても、人間においても、異質なものが隣にある場合に拒絶や摩擦のエネルギーが高まるんでしょうか。 コラージュの個々の断片では視点や陰影がバラバラになっているので、作品全体で一つの風景を表現させる微妙な感覚の調整が制作に必要なんだろうなと思います。 抽象絵画が完全に捨て去る遠近感やモチーフの形態や大小の関係はある程度残しつつ、異空間を作られているのは、絵画のシュルレアリズムに少し通じる部分があるのかなと思います。 作品を購入して数年経た後に、作家さんの講演を聞く機会があったのですが、大学では油画を専攻されていて、具体的な外の世界のイメージを自分の中で再構築し、筆を重ねていく方法で絵画を制作されていたようです。 修了制作で優秀賞を受賞されたようですが、ただ、その時に絵画作品を完成させる事の難しさを感じられていたようです。 その後、写真の表現方法が自分に合っていると感じられたそうで、写真の学校に入り直し、室内での撮影から始まり、次は外に出て、撮るべき対象を見つけるために、普段は近づか

東美貴子 Mikiko Azuma 「glass and water」

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東美貴子 Mikiko Azuma 「glass and water」 created in 2011, bought from HARMAS gallery in April 2011 アクリル版が反射して見え辛いですが、小さい粒々のモザイクを支持体に貼った作品です。 他の作品の画像ですが、非常に繊細な表現の作品です。 購入したのは2011年ですが、2017年の展覧会の際の紹介文をアルマスギャラリーの八木さんに頂いたので、作家さんの言葉をそのまま記載します ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 世界のすべてのものは、小さなつぶつぶでできていて、無数の粒が集まったり離れたりすることによってこの世界に存在している。 科学で証明されているより遥か昔、古代ギリシャの時代から直感的に人々はこの事を知っていた。 微生物が有機物を分解して土に還すように、私も日常で要らなくなったものを細かくカットして小さな色の粒を作る。 その粒を様々な組み合わせで置きながら、重ね合わせた風景や、光や水の痕跡、有機物の集合体のようなものを描いている。 最初の一粒目を置くときは、何かが生まれる瞬間に立ち会うような気持ちになる。 作品が出来上がる過程では、多くの事が起こり、私の頭の中に過ぎることも日々変化する。 意識することはないけれど、私自身の細胞の一粒一粒も毎日入れ替わっているらしい。 季節の影響で、紙は張ったり弛んだりし、糊の濃度の加減も違う。 カットする紙も、実際自分が生活の中で使っているものなので、都合の良い色や素材が揃うわけではない。 そんなわけで、かたちは最後の最後まで予測できない。 時間をかけた作品の、最後の一粒を配置してほっとしていると、ふと傍らに置いてある虫喰いだらけの古本が目に入る。 今出来上がったばかりの作品も、未だ変化の過程にあって、想像のつかない道筋でいつか一粒に戻ってしまう日が来るのだ。 たぶん私自身がそうであるように。 東美貴子 (美術作家) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 作家さんにはお会いしたことが無いのですが、私が作品を購入した時に感じた感覚と比較的近い感覚が記載されていて、しっくりきました。 私が購入した作品は、形態が泡になってゆっくりとピクセルに分解されていく時の、少し

渡部剛 Go Watabe 「PUNCH-LINE Mozaic02」

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渡部剛 Go Watabe 「PUNCH-LINE Mozaic02」 created in 2010, bought from Young artist Japan in Nov 2010 女性ファッション誌の切り抜きをコラージュして、ハニカム構造の金属を上に被せた作品です。 http://watabego.com/ https://note.com/watabego Young artist Japanというタグボート主催のアートフェアで購入したのですが、 アートフェアでは数多くの作品を一度に見るのですが、この作品は表層的なユニークさもありますが、それ以外にも何か引っかかるものがありました。 購入した時に作家さんと話す機会があったのですが、 確か、作家の渡部さんは神保町の古本屋で働いていて、その環境の中で作品を作られたと仰っていたいたように記憶しています。 女性誌の文字の切り抜きを作品に使用されているのですが、色が派手で、レタリングが独特で、文章のテンションが高いです。「すぐ買わなきゃ!」「愛され顔、選べます」「リゾートガールスタイル」「最強Tシャツ」「最強マスカラ」。 たまに映画館とかで、良く分からない会話で大爆笑している女の子達を見かけますが、 箸が転んでも可笑しい年頃というか、ドーパミン高めの、あんな感じのテンションなのかなと。躍動感や疾走感がありますね。 何が「最強」なんだと突っ込みたくもなりますが、こういった若い人の需要を喚起する流行と消費の文化をシニカルに見ている訳ではなく、平和ボケかもしれませんが、政治・社会のシリアスな新聞記事の切り抜きよりは親近感が湧いてきます。 人間の情動を表現しようとするペインティングは多いですが、この作品はコラージュの形態で若い人の情動や時代の雰囲気を直接的に表現することに成功していると思います。 現代アートの文脈で考えると、リヒテンシュタインのポップアートのようなシミュレーショニズムは漫画の「イメージ」や「像」をアート作品の中に配置していますが、渡部さんの作品ではコンビニの雑誌コーナーにあるような大衆的な女性誌の「メッセージ」の切り抜きを作品中で使用しており、ポップアート流れの中でこの作品の位置を考えるのも面白いです。 また、仮にですが、女性誌の切り抜きの作品があったとして、それがモデルの女の

青秀祐 Shusuke Ao 「PAX-TO2 Flight Date Analysis Test Stage 100019」

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青秀祐 Shusuke Ao 「PAX-TO2 Flight Date Analysis Test Stage 100019」created in 2010, bought from eitoeiko in Oct 2010 http://www.aoshusuke.net/ 折り紙の飛行機の設計図を額に入れた作品になります。 平面作品なのですが、ギャラリーで良く展示されているような油彩のペインティング作品等と比較すると、大分ユニークなので、興味を持ちました。 購入した時は、この作品が何を表現しているのか良くわからず、作家さんが作品を作られた意図等も全く把握していなかったです。 翌年の冬に、作家さんやeitoeiko(エイトエイコ)ギャラリーの方々とバスで成田の航空科学博物館に青さんの展示を見に行くのに同行させてもらいました。 航空科学博物館での展示は、飛行機の開発における系統の進化とDNAの展開を表現したような作品でした。 私は門外漢ですが、トップガン等の映画を見ると、戦闘機のFシリーズ(米国)や、MiGシリーズ(ロシア)を代表格として、その時代の最高の技術力で開発競争が行われて来たと想像できます。 アート作品の多くは個人の感受性や認識を土台とする作品が多く、工業や技術・科学を土台とする作品は少ないと思います。後者に興味を持つ高校生は工学部等を志望し、芸術大学には行かないでしょうし。 そういう意味で、アートの分野でこういったテーマの作品が制作されるのは珍しいと思いますし、貴重なアーティストさんだと思います。青さんは多摩美術大学の日本画専攻を卒業されていますが、そこからこういった作品を作られるという面でも興味深いです。 現代アートの面白さは、その間口の広さだと考えておりますが、伝統的な形態の作品も面白いのですが、こういった意外な切り口の作品が評価されると、鑑賞者としてとても嬉しいです。 青さんの作品を始めて拝見したのは2009年ですが、その後、海外の美術館や青森県立美術館で規模の大きい非常に面白い展示をされているようで、ご活躍を嬉しく思っています。 eitoeikoのギャラリストの癸生川さんはアートに情熱を持っている面白い方で、ギャラリーの所属作家も吉田有紀さんを初め独創的な方が多く、いいギャラリーだなと思います。 http:/

志賀理江子 Rieko Shiga 「カナリア門」

志賀理江子 Rieko Shiga 「カナリア門」 created in 2009, bought from 赤々舎 in Jan 2010 https://www.liekoshiga.com/works 志賀理江子さんの 写真集です。2007年の「CANARY」の展覧会の写真が収録されています。 100ページほどの写真集で、右ページにL版位の写真が直に貼られており、左ページに文章が書かれています。 文章の中に、「イメージ」という言葉が多く出てくるのですが、作家さんがどう写真でイメージを作り出していくのか、制作へのアプローチの考え方が記載されています。 この写真集で、作家さんは仙台、ブリスベン、シンガポールで写真を撮影されていますが、被写体のコミュニティに積極的に介入し、想像力を働かせ、目の前の現実に働きかけ、現実を変える事で、未知のイメージを写真で作り出している事の勢いや切迫感に心地いい疾走感を感じます。 現実になるべく働きかけないで素を撮影しようとするスナップ写真や現実へ介入する事のない絵画とは対照的な制作方法だなと思います。 私は制作者ではないですが、この写真集を見ると、他社と積極的にコミュニケーションを取り、現実が変えられると信じて想像し、変化を起こしていくアプローチは面白いと思いますし、見習うべきだなと思います。 真面目な写真集だとは思うのですが、好奇心や遊び心を感じますし、その時、どう感じたか、感覚を大事にしつつ、それを写真のイメージに昇華していくような、いろんな要素の間のゆらぎに存在しているような気がします。 何を撮るのか、どう働きかけて撮るのか、私はどのような立ち位置で、何を感じるのか。 目の前の状況に対して、漫然と日常を過ごして何も感じないといった不感症にならず、作品を制作する源泉の自らの感性や閃きや複雑な感情を大事にされているのを感じます。 また、滞在制作にあたって地域を知るフィールドワークとして、この地域で「明るいところ、暗いところはどこですか?」という問いを地域の方にしながら道案内のような地図を作られたようですが、面白いアプローチだなと感じました。 オーストラリア先住民族アボリジニの文化にソングライン(songline)があるそうですが、少しこれが思い起こされました。以下ソングラインのWikipediaの抜

あるがせいじ Seiji Aruga 「1018」

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あるがせいじ Seiji Aruga 「1018」 created in 2010, bought from Roentgenwerke AG in March 2010 一見、分かり難いですが、紙を重ねた作品です。 あるがさんの他の作品は紙を切ることで空間を広げていくものや、奥から手前に重なっていく作品も多いようですが、この作品は切り抜いているのと同時に、下から上への積み上げ型で、ブレードランナーに出てきそうな高層ビル群だったり、 組積構造の建築物をイメージさせます。 1枚1枚紙を切って重ねて、、、どれだけの根気が必要なんでしょうか。 「あるがせいじ」で検索すると、主に紙を使った技巧的な作品が色々ヒットすると思います。 あるがさんの作品については、建築·構造的なイメージを刺激するので気に入っています。 数式で表されるほどカッチリした幾何学的な形態では無いとは思いますが、作品を見ていると、段によって切り抜く面積や数を決めているのかなと思わせられ、統一感の裏に法則を見い出したくなる欲求を刺激します。 今は数式を見てもさっぱり理解できませんが、 昔、 マクローリン展開の式がグラフになって目で見えた時に随分スッキリしたのを覚えています。 関数等の数式が2Dや3Dのグラフで視覚的に表現されるのは快感でしょうし、逆にアンモナイトやオウム貝の貝殻を螺旋数式で表現しようとする人もいるようで、数式と現象を行ったり来たりするのは楽しいのかもしれません。 どのように制作されているのかは知りませんが、作品を制作する前に法則を決めて、色々な構造を実験しているのでしょうか。感情を表現するようなアーティストと違って、かなり建築家的な方なのかもしれないですね。 また、手作業の暖かみというか、隙間に人間の思考が入る事が出来るような余裕も感じて、完全に法則を決めて機械で削り出してこういった作品を作ってもあまり好きにはなれないかもなと思います。 多くの時間と思考の集積を、作品を通じて一瞬で鑑賞者に伝えられる表現の強さ、また鑑賞者のイマジネーション広げていく表現の工夫に感銘を受けます。