三田健志 Takeshi Mita 「On the contour line」「ありてあるあるもの」
三田健志 Takeshi Mita 「On the contour line」 created in 2014, bought from Hasu no hana in Nov 2014
三田健志 Takeshi Mita 「Thumbnail(hb15-002)」 created in 2015, bought from H-art Beat Gallery in Mar 2015
構想計画所 Kousoukeikakujo 「ありてあるあるもの」 created in 2014, bought from 養清堂画廊 in June 2014
三田さんの作品はこのブログで2回目の登場ですが、今回は2015年前後の作品になります。
https://mita-takeshi.tumblr.com/
この頃の三田さんの作品は、架空の人物を設定(本当に存在していたかもしれないですが)し、その人物が存在して経験したであろう軌跡を展覧会で提示されていました。
On the contour lineの展覧会では、冒険家・登山家の大洲奏。三田さんがグループで参加されている構想計画所では無人島に流れ着いた人物として。
架空の人物を設定して、そこに記述していくのは、フィクションの小説の手法と似ていますが、小説がストーリーや演出的な文章でリアリティを付加していくのに対して、三田さんは写真や物で世界観を構築されていました。
一番初めに三田さんの作品を購入した2009年当時は三田さんの事を写真家さんだと思っていたのですが、この頃の作品は写真の形態の作品だったとしても、インターネットから検索して拾ってきた画像を加工して作品にしていたり、染め物だったり、物だったり、石膏だったり、写真機を使って現実の世界を撮る写真家さんのイメージとはだいぶかけ離れた作品を制作されていました。
この頃の三田さんの作品からは「リアリティ」の強度といったテーマを感じます。
観光地で写真を撮る、お昼御飯の写真を撮るといったように、一般的には写真と現実の体験は≠ニアリーイコールな側面があるので、リアリティの強度が高いと見なされる写真で架空の人物を記述する事は小説と比較してもとても面白いと思います。
On the contour lineの展覧会では、写真だけではなく、架空の冒険家が収入を得る手段として、製薬会社に売るためのガラス菅に入った植物の種子等も展示してあり、しかも年季が入った小物で、綿密に世界観を構築されていました。
三田さんと話した所、冒険家・登山家の大洲奏が本当に存在してたかのように、Google検索で引っ掛かるようなHPを作ることも考えていたとおっしゃっていました。面白いですね。
観光地で写真を撮る、お昼御飯の写真を撮るといったように、一般的には写真と現実の体験は≠ニアリーイコールな側面があるので、リアリティの強度が高いと見なされる写真で架空の人物を記述する事は小説と比較してもとても面白いと思います。
On the contour lineの展覧会では、写真だけではなく、架空の冒険家が収入を得る手段として、製薬会社に売るためのガラス菅に入った植物の種子等も展示してあり、しかも年季が入った小物で、綿密に世界観を構築されていました。
三田さんと話した所、冒険家・登山家の大洲奏が本当に存在してたかのように、Google検索で引っ掛かるようなHPを作ることも考えていたとおっしゃっていました。面白いですね。
写真に小物に、その他生前の品が物理的な空間に展示されていると、もはや実在の人物としか思えなくなります。
また、三田さんは構想計画所というアーティストのグループに参加されており、展覧会「ありてあるあるもの」の冊子に以下の文章があります。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
他社なき世界、無人島の砂浜を舞台に、現実と妄想が交差し、互いの抵抗と変容を経て、ひとつの新しい存在者として再生するまでの軌跡を描写しようとする試みである。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
縄の化石のような石膏の作品は、この展覧会で購入した作品ですが、無人島に流れ着いた人物が生活をしていた確かな証拠として存在感を感じます。
また、版画の表現もされていたと思いますが、こちらは無人島の人物の経験が、妄想か現実か確かめようがないような印象を受けました。
リアリティの強度は表現媒体によって違い、質量を伴った立体物は一番存在感がありますが、ウィリアム・ケントリッジの素描のような版画のリアリティは夢のような感じを受けます。
同一人物を記述していく展覧会で、複数の素材や表現媒体を使用することで、それぞれが発揮するリアリティの違いを感じられるのはとても面白いです。
三田さんのこの時期の作品について(一部この展覧会についても)、ありがたいことに、下のリンクに丁寧なインタビュー記事があります。
https://imaonline.jp/articles/interview/20181222takeshi-mita/#page-1
写真のリアリティの強度や、間接的な経験と想像力、それに対する現実の体験との齟齬が書かれているようです。
少し、話は飛ぶのですが、この頃の三田さんの作品は架空の人物の存在証明をアート作品で表現していると思うのですが、私も含め、実在している人間が、日々の生活で、どう存在の証明や人格の一貫性を担保しているのか、またその必要性があるのかは面白いテーマだと思います。
役者は作品によって演じる人格を入れ替えますが、継続的な再生産を前提とした社会においては、本来不確かな個人の人格も一貫性が求められると思います。
Facebook等のSNSでは、写真を撮影した本人であれば、前後の文脈や五感を追体験できて記憶を補完しつつ、外部に対しても一貫性を主張できるので、有益なプラットフォームだと思います。自我を拡散したいかどうかは人に寄るとは思いますが、経験値の蓄積は人生を豊かにするものだと思います。
一方で、ニート、セルフネグレクト、孤独死、認知症等の方々も多くいらっしゃる中で、人格の一貫性や外部に対する規律の維持を放棄する事も自然な事だと思いますし、そういったせめぎ合いを表現対象とすることは意義深いと感じます。
介護の現場では認知症の方の微かな記憶、孤独死された方の遺品整理、そのような場面に立ち会う方がその方の人格を空想されていますが、否が応でも考えさせられます。
その人の性格や人生の歴史の正確な所は理解できないとしても、それを想像してみる行為は誰にとっても重要なのかもしれません。
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