栗田紘一郎 Koichiro Kurita 「Dark cloud」
栗田紘一郎 Koichiro Kurita 「Dark cloud」 created in 1987, bought from Fotosphere gallery in Mar 2018
写真家の栗田鉱一郎さんの作品です。
https://www.koichirokurita.com/
主に米国で活動されている作家さんで、ソローの足跡を辿ったアメリカでの”Beyond Spheres”のプロジェクトを終えられた位なのでしょうか、友人の紹介もあり、購入しました。
購入した作品は、“Chi Sui Ki”というシリーズの作品で、撮影されたのが1987年と、栗田さんがアート写真のキャリアをスタートされた初期の作品で、八ヶ岳の自作の暗室に滞在しながら制作されたようです。
その後は渡米して30年間制作をされているので、日本で撮影された作品は意外に少ないのかもしれません。
実物の作品はとても陰影が滑らかで、地球上の景色ですが、少しあの世の光景のような、荒涼としつつ温かさも感じる、自然の厳しさも優しさも、どちらも伝わってくる落ち着いた作品です。複雑な機械による補正をあまり通さない分、対象物の存在をより近くに感じます。
実物の作品はとても陰影が滑らかで、地球上の景色ですが、少しあの世の光景のような、荒涼としつつ温かさも感じる、自然の厳しさも優しさも、どちらも伝わってくる落ち着いた作品です。複雑な機械による補正をあまり通さない分、対象物の存在をより近くに感じます。
この作品はストレートフォトだと思うのですが、アートとして写真を見る時、アナログカメラの時代からここ数十年で大きく変化した写真を取り巻く環境や、スマホで撮られたデジタル写真が気持ち悪いほど氾濫する現状を思うと、あまり時代の変化を受けていないようなペインティングの世界との比較もあり、色々迷いを感じます。
個人的な体験としても、幼少期に写ルンですや親のフィルムカメラで写真を撮影して現像に出していた頃の思い出と、スマホで適当にカシャカシャ気軽に写真を撮る現在の行為は全く別のものだと感じます。昔は現像するのに時間とお金がかかって、1枚の写真に重みがありました。
アート写真の分野でも、スナップ写真の時代があり、90年代以降はデジタルカメラとインターネットの発達を受けてトーマスルフのように自分でシャッターを切らずにインターネットから拾ってきた画像を加工して作品を作る作家や、横田大輔さんのように写真に物理的な処理を加えて別のマテリアルに変容していくような試みが行われていて、機材や印画紙の技術的な側面を重視する傾向は継続しているにせよ、ストレートフォトとは離れたところまで来ていると思います。
自分がこれまで購入した写真の作品もストレートフォトは無く、三田さんはインターネットから画像を拾ってきてフォトショップか何かでデジタル加工していますし、進藤さんは自分で撮影した写真を手でコラージュし、池田さんは写真を切り抜いています。写真を撮る事の難易度が極端に低下したので、コンセプトや加工に意識が向いているのだと思います。
栗田さんの作品を購入したのは、作品が好きなのと同時に、キャリアに興味を持ったことが大きいです。
栗田さんの経歴を見ると、1943年生まれで、1980年代中盤までは広告写真の世界でご活躍をされていて、ソロー(Henry David Thoreau 1817-1862)の「Walden; or, Life in the Woods(邦題:ウォールデン 森の生活) 1854年」という本に感銘を受けて40歳前後でアート写真の分野にキャリアを移されたようです。
1980年代中盤というとバブル真っ只中ですよね。私は経験していないですが、土地や株を買えば必ず上がって、あぶく銭で深夜まで飲みまくって、捕まらないタクシーを札束を見せて停めていた時代と聞いています。
物を作れば売れた時代に華々しい刺激的なコマーシャルフォトの世界から、ソローに影響されて、ネィチャーフォトの分野に転向されたという事でしょうか。
ちなみに、何かの縁かもしれないのですが、購入した後、アートトというインディペンデント・キュレーターの小澤慶介さんが開催している講座で、レベッカ・ソルニットの「Wanderlust: A History of Walking (ウォークス 歩くことの精神史) 2000年」という本を読む機会がありました。
この本の中で以下のようにソローの事が言及されており、
「ソローその人は自然を詠う詩人であると同時に社会批評家だった。その市民的不服従、戦争と奴隷制を賄う納税を拒否したことと、その帰結として獄につながれて夜を過ごしたことは有名だが、(中略)、ソローは釈放されたその日にベリー摘みの遠足の先頭に立った。」
とあります。1800年代の中盤の時代の作家でありつつも、未だにソローの考えは現代の感性に影響を与えるようです。
ある程度長編ではあるのですが、栗田さんの作品理解のためにソローの「Walden; or, Life in the Woods(邦題:ウォールデン 森の生活)」を読んでみました。
本としては、ソローがウォールデン湖の傍に小屋を建てて数年間自給自足の清貧な生活をしながら執筆した自然観察を主とする文章で、東西の詩や哲学や宗教を参照としたセンテンスが添えられています。それと同時にその当時の街で暮らす人に対する人間批判も展開されています。
本のあとがきに、「ソローが14歳年上のラルフ・ウォルドー・エマソンと個人的にいつから相知るようになったかは定かではない。エマソンは1836年に超越主義の要綱ともいえる『自然』を出版して超越クラブを発足させ、その周囲に文学者や知識人を多く集めるようになっていた。人間の徳性・言語・芸術・学問等の進歩の原動力は自然にあるとして、自然の偉大さと神秘性を私的な文体で雄弁に語ったエマソンのこの著書は、ソローの人格・思想の形成に多大な感化を及ぼした。彼は超越クラブの一員となった。」
とあります。ソローは超絶主義の作家と定義されているようですが、wikipediaの「超絶主義(Transcendentalism)」の解説が下です。
1830年代半ば頃から1860年頃にかけアメリカ合衆国ニューイングランド地方のユニテリアン派の中よりラルフ・ワルド・エマーソンやヘンリー・デイヴィッド・ソローらによってロマン主義運動・思想(理想主義運動)が行われた。これは、1836年9月8日、ボストンに「超絶クラブ」が設立されたことが発端とされる。同年の評論「Nature」において、アメリカのラルフ・ワルド・エマーソンは、この超絶主義を世に打ち出した。
超絶主義は、客観的な経験論よりも、主観的な直観を強調する。その中核は、人間に内在する善と自然への信頼である。一方、社会とその制度が個人の純粋さを破壊しており、人々は本当に「自立」して、独立独歩の時に最高の状態にある、とする。超絶主義は、ドイツロマン主義、とりわけヨハン・ゴットフリート・ヘルダーとフリードリヒ・シュライエルマッハーの思想と親密である。
この解説を読んで、本を見返すと、自然・人間賛歌的な肯定的な文章と同時に、当時の社会システムが人の考えを狭窄にしているとの批判が述べられていることを確認できます。
また、ソローの有名なエピソードとして以下が解説に記載されています。
「本書が執筆された時期の特筆すべき出来事は、ソローの投獄事件である。湖畔に住み始めてから丁度1年ほどたった、1846年7月下旬のある日、修理に出しておいた靴を受取りに村に出かけていく途中で、(中略)、彼は逮捕されて、コンコードにある群の刑務所に投じられた。理由は、彼が6年間にわたって人頭税の支払いを拒否していることにあった。ソローがこうした挙にでたのは、奴隷制度を支持し、メキシコ戦争を推進するアメリカ政府に抗議するためであった。投獄事件のいきさつと納税拒否の思想的根拠については、後に、『市民の反抗』の名でしられるようになった彼の有名なエセーに詳しい。ソローによれば、国家というものは元来、国民が平和に暮らすための単なる方便にすぎないものであり、個人の自由を、まして良心を左右する権限はまったくもたないのである。もし、国家と個人の良心との間に相克が生じた場合は、市民は納税の拒否といった平和的手段によって、国家の不正に抗議する権利を有する。というのである。『市民の反抗』は20世紀にはいって、独立運動家のガンジーや、市民権運動家キング牧師の間で愛読された。」
ソローは人々を扇動する革命思想家や社会運動家というよりも、個人としての良心を非常に大切にして行動していた所にシンパシーを感じます。
また、ソローは生徒に体罰を与えるのを拒んで学校を数週間で解雇されたり、田舎で自給自足をしたり、カントリージェントルマンやリバタリアン的な要素も感じます。
たまに、Youtubeで都会の生活に辟易して田舎に自分で小屋を建てて、あまり出費をしないで、自身の求めるライフスタイルを実践させている人を見るのですが、ソローがしていた生活に近いですし、不便ではありますが、少し羨ましいです。都会で高い家賃や住宅ローンを払い、自由な時間もあまり持てずに働き詰めな人より、彼らの生活の方がよっぽど豊かに見えます。もっと働いて、もっと稼いで、もっと消費する時代はもう過去のものの様な気がします。
ソローの著作には、自然に対する態度として、何が適切か、考えさせられる面があります。都市は人間が人間のために作った環境なので便利ですが、自然は人間のために存在しているのではなく、個々の動植物が可憐な姿を見せる一方、自然総体としては地震・津波・洪水・獣害・異常気象といった人間への敵意を感じるような現象を見せるわけで、都市での人間の態度は自然に対する隔絶と制圧なのに対して、自然の中で生活する場合は、自然に対する観察と受容が求められるのかもしれません。
栗田さんの”Beyond Spheres”のプロジェクトの説明に以下があります。「Kurita’s approach provides a unique opportunity to experience Thoreau’s philosophy of man’s relationship to nature in visual form and demonstrates the value of photography—slow photography, made by hand—in today’s fast paced world. (栗田のアプローチはソローの言及する自然と人間の関係を視覚的に体現し、また、今日のスピードが重視される世界に対するスローフォトの価値を提示する)」
人間と自然の関係において、農業や鉱業等の産業の分野では人口増加を支えるために自然を使役して労働生産性を高める努力が産業革命以降継続的に行われていますが、ソローのアプローチは壮大かつ精緻な自然を観察することで得られる感動によって生物としての人間性や良心を回復させるものに思えます。
都市は、必要以上に目的を持った人と目的のために作られた人工物の集積ですが、自然の中で存在している者たちは、単純に生存する事だけで充足されます。人間性も同様に肯定されるでしょう。
また、都市の時間は人間の生産性を管理する時間なのに対して、自然の時間は変化と生死の時間で、四季の移り変わりを視覚や嗅覚で体感したり、そこらに落ちている虫の死骸を見て生命の循環と人間もその一部であることを認識したり、自然の世界を写し取るには、自然の時間に合わせたスローフォトの様な時間軸で撮影を行うプロセスが重要なのかもしれません。
スローフォトのアプローチは、結果を急ぐ今日の現状に対するアンチテーゼで、加速するPCの処理速度に合わせて人間の思考がコントロールされる環境に対して、面倒な事をしているようで、あえて待たされている時間を、無為で繊細な時間を享受できていると感謝できるような心境になれたら、それはとても幸いなのだろうと思います。
栗田さんの作品を購入して4年程度後、栗田さんの「Beyond Spheres」のシリーズの作品が2022年3月から5月まで国立近代美術館の所蔵作品展「MOMATコレクション」で展示されるという事で近美に行ってきました。「Tangent, Tangent II, The Wind Side, Winter Path」という作品が展示されていました。
栗田さんの人生や作品が後世にどう評価されるのでしょうか?
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