伊藤一洋 kazuhiro Ito 「ブロンズ彫刻」


伊藤一洋 kazuhiro Ito  「Liquid golden babies」の作品の一つ created in 2010, bought from hpgrp GALLERY TOKYO in 2010



伊藤一洋 kazuhiro Ito 展覧会「bridge」の作品の一つ created in 2012, bought from hpgrp GALLERY TOKYO in Jan 2012



伊藤一洋 kazuhiro Ito 「天體 015」 created in 2015, bought from hpgrp GALLERY TOKYO in Jul 2015



伊藤一洋さんのブロンズ彫刻です。2年おき位に3点購入しています。

以下のリンクはブロンズの鋳造工程の説明ですが、何段階もの工程を踏み、技術と労力が必要なようです。




通常、ブロンズ彫刻家は原型を作ることに注力し、鋳造以降の工程は職人に任せる事が多いようですが、一番上の伊藤さんの作品は、より直接的に素材であるブロンズに働きかける方法で制作されています。

原型が無く、他のブロンズ作品を作る過程で産まれた塊(湯道)に直接作家が働きかけ、石彫や木彫のようにそのままブロンズを削り出す方法で制作されてるようです。

火山から産まれた溶岩の生物をそのまま持ってきたようなプリミティブな感じで、鋳造する際の溶けたブロンズが重力と温度に従って、冷えて固まったような感じがします。

地球、重力、空気、火、金属の沸点や融解、自然の力を借りた制作。悠久の時間を意識させるモチーフ。

この作品は「Liquid golden babies」というシリーズの内の一つになるのですが、このシリーズは現在、過去、未来を表現されていたようです。

素材が作家の思考に影響を与えると良く言いますが、石彫の作家が素材である石を形成してきた過去数億年の大地を意識するように、ブロンズ彫刻家は過去数千年のブロンズ彫刻の歴史、作家が生きている現在、また、素材として作品が残る可能性のある未来の数千年を意識するのではないかと思います。

現代アート・コンテンポラリーアートというと、目の前の具体的な出来事・社会問題をジャーナリスト的に取材していく「現在」に重点を置いた思考がフィットするような気がしますが、ブロンズという永年性の高い素材を扱う場合には、より、抽象的で時代を俯瞰するテーマで制作に臨むのかもしれません。

また、一番下の写真の「天體(てんたい)」という作品では、蝋原型で整形されているとお聞きした記憶があります。

1番上の作品が削り出す作業なのに対して、1番下の作品は1から作り出す作業ということで、恐らく創作されている感覚も大分違うんではないでしょうか。1から生命を作るような感覚でしょうか。

「體」という漢字は見たことが無いですが、「体」の旧字体だそうで、「天體」→「天体」のようです。

頭蓋骨のような包み込む空洞があり、脱け殻にも見えますが、題名のように大きな存在への飛躍も感じさせます。

思えば、人間の小さな頭蓋骨の中で考えた空想や物理学や科学を使って、大きな宇宙を詩や数式やロケットの形で意識して体験しようとしている事は凄いことですよね。途方も無いなぁと、、、

また、一般的にブロンズ彫刻の表面はツルツルした作品が多いと思うのですが、作家さんが蝋原型に手を入れることで、表面の凹凸のある質感を出しており、ブロンズという素材の別な側面を表現されていると感じます。

抽象絵画で画家の筆跡を見て、その画家がキャンバスに筆を振って走らせる動作が想像できるように、この作品の凹凸を見ると作家さんの指の体温も伝わってくるようです。

伊藤さんのブロンズという素材に対するこだわりや、抽象性の高さは、私の理解の届く所では全く無いですが、それでも何となく作品を通じて作家さんが何を考えて作品を制作されているのか推理していく楽しみを与えてくれる気がします。

ロスコやニューマンが形而上的な崇高さの概念を抽象絵画で表現しようとした事が思い出されますが、伊藤さんの作品には原初的な物質性や生命感を感じます。

最後に、私は平面も立体も好きですが、やはり立体作品、特に彫刻作品の一番の特徴は存在感だと思います。

ルーチョ・フォンタナがキャンバスに切り込みを入れて空間性や物質感を出したとしても、ペインターが厚塗りをしても、やはり鑑賞者は平面の作品に対しては、平なイメージを認識し、記憶してしまいます。

感覚的には、赤ちゃんの写真をイメージとして見るのと、実際に抱っこする感覚の違いに似ているような気がするのですが、彫刻の触覚を通じた重さと物質感は何とも言えないものがあります。

特に頑健なブロンズ彫刻は、長い時間、美が宿る媒体として特別な安定感と安心がある気がします。

資料として、伊藤さんの2005年当時のインタビューがあり、リンクとコピーを掲載しておきます。



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伊藤一洋 展 -Liquid Golden Babies- 「彫刻の本能vol.2」 2005.6/20-25 なびす画廊  interview 

・・・まず金属との出会いを教えてください。
僕は武蔵野美術大学の工芸工業デザイン学科を卒業しています。この科は工芸と工業デザインに分かれている科で、僕は工芸を勉強していました。そこで金属を専攻しまして・・・金属の技法には大きく分けて彫金・鋳金・鍛金の3種類ありますが、僕は鋳金に心惹かれるものがあったんです。それで鋳造を覚えました。

・・・鋳造というのは一般的には溶かして液状にした金属を鋳型(いがた)と呼ばれる型に流し入れて冷却し、それが固まったところで鋳型から取り出して鋳物を製作することですよね。そうするとはじめに石膏や木やFRPなどの素材の原型を作って型取りするんですか?
今までは蝋原型を作っていたんですが、今回は原型はないんです。

・・・え?原型がなくても出来るものなんですか。
鋳造するには、湯道といって・・・湯道というのは、たとえばブロンズを湯口(ゆぐち)と呼ばれる入り口から鋳型(いがた)に流し込むんですが、その型にたどりつくまでの道みたいなものです。
僕は今、鋳金工房で働いています。原型は品物として納品されるので、その残った道から作り出されたものなんです。わかりますか?

・・・道ですか?
もともとこの形の原型を作ったわけではなくて、道だけがあったんです。プラモデルのランナーはご存知ですか。パーツとしてはいらない部分だけれども残っている縁みたいな部分がありますよね。そこだけを残しておいて削り出しているんです。

・・・なぜそういう手法を選ばれたのでしょうか。
原型があると、その形が鋳型に移って鋳型に移った形がまたブロンズに移るという行程を経なければならない。その工程を辿ることで、作品が自分からどんどん離れていっているような気がしたからです。原型を作るのが自分の仕事であって、鋳造することは火にそれを任せただけなのではないのかと・・・。

・・・なるほど。自分の手で何かを産みだすということですね。産みだすといえば、伊藤さんの作品は、物質として形をとらえるというよりは、有機的なイメージを感じますね。
今回の展覧会のタイトルは、“彫刻の本能”。
彫刻自身の本能とは何かといえば、作り出されることを待っているものだと・・・「これが彫刻ではなくて、これに込められているものが彫刻である。彫刻ということ」。それが背後の世界というか彼岸にあって・・・作り出してくれといっているのが彫刻の本能ではないだろうかと思ったんです。

・・・彼岸というのは、手前からはるか向こうを望む層みたいなものですね。作品の足元にある影が鏡面のように多次元空間を映し出しているように感じます。
作品を磨き込んでいるのは、映り込んでいる世界はこっちの世界なんだけれども、こっちにあってこっちにはないようにしたかったからなんです。

・・・ 作品が金色に輝いているのは光を意識しているからですか。
ええ。ブロンズは磨けば光りますからね。そしてこの蜜蝋自体も光を溜めてくれているような気がするんですよ。蝋に反射して光が見えたりとか・・・いろんな光がこもっている彫刻にならないかなと思ったんです。ただこの蝋は時がたつとひびが入ってきたり、割れたりするかもしれません。
彫刻は時空を旅するものであるならば、蝋がいつか消えてもブロンズだけで光が溜められるように、これから表現力をつけたいと思ってるんです。

・・・ファイルを拝見していると、pretensionが抜けて段々シンプルな形に向かっているように思いますが、これからの方向性としては?
今のところブロンズから離れるつもりはありません。以前は、最後に行き着くところは、一本の棒や板みたいなシンプルなものになりたいと思ったこともありました。まだそれが心の隅っこに残っているんですよ。何十年掛かるかわかりませんが、monolithのような存在に・・・。

monolithというのは、“ 一枚岩的な統一体”を指すそうです。~25日まで。

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